このブログでもたびたび取り上げてきた松江市北公園のカンサイタンポポと安来市伯太町のキビシロタンポポについても報告されていて、公的?な資料でも島根県内にカンサイタンポポとキビシロタンポポが生育していることが確認されました。

(北公園のカンサイタンポポ:2007/4/6)
また鳥取県米子市の湊山公園米子城跡のケンサキタンポポ生息地については、2倍体のトウカイタンポポと高次倍数体のケンサキタンポポ、ヤマザトタンポポが混在してることが報告されていました。

(米子城跡のトウカイタンポポ)
山陰地区にトウカイタンポポがあるというのが謎です。近隣にトウカイの分布している地域がないので、カンサイタンポポと同様に外部からの移入ということなのでしょうか?
外部からの移入と仮定すると、この米子城という立地から思いつくのは他所の土地からやってきた領主が持ち込んだという可能性です。
米子城の歴代城主をしらべてみると、現在の湊山の地に築城を始めたのは吉川広家ですが、1601年に駿府(現在の静岡市)出身の中村一忠が完成させ、慶長15年(1610年)美濃黒野藩(現在の岐阜市)から加藤貞泰などトウカイタンポポの分布域と思われる地域からの大名が城主となりました。さらに加藤氏は米子のあと7年足らずで伊予国大洲藩(愛媛県)へ転封しているということです。(Wikipediaより)。今回の調査で愛媛県の大洲市を中心に見つかったオオズタンポポ(仮称)も形態的にはトウカイタンポポに似ているということです。

単なる空想(妄想)でしかありませんが、江戸時代の殿様が領地を替わる時に前の領地から持っていった樹木や植物にタンポポがついていた可能性もあります。大名の領地替えがタンポポの移動に関わったのかもしれません。
カンサイタンポポでも同様な事例が見られます。カンサイタンポポがあまり分布していない地域にもかかわらず広島城周辺と福岡城周辺で局地的にカンサイタンポポが見つかっています。西日本タンポポ調査の報告書では「古く江戸時代に城国替えとともに植木などとともに持ち込まれたという説明も可能」とされています。
広島城主は紀伊和歌山の浅野氏、福岡城主は播州姫路の黒田氏といずれもカンサイタンポポの分布域出身です。
これを証明するには、米子城のタンポポとオオズタンポポの遺伝子的な調査を行う必要があります。新潟大学の森田先生などがされたように何種類かのアイソザイムを分析してそれを東海地方のトウカイタンポポと比較して、どの程度違うのか、また一致するのかをしらべないといけません。また歴史的側面から、米子城や大洲城に移った際に植物なども持っていったことを記録した古文書でも見つかれば補強資料になりますね。
江戸時代に旗本や大名に広がった園芸ブームとの関連が無いか調べてみましたが、様々な蒲公英の園芸種が栽培され「蒲公英銘鑑」が発刊されたのは加藤氏が大洲に移ってから200年後の1828年ですから、蒲公英園芸ブームとの直接の関係は無さそうです。
★大名の領地替えとタンポポの移動について、2012年5月23日付けの朝日新聞夕刊に記事が載りました。
それによると、愛知教育大学の渡辺幹男教授が愛媛のオオズタンポポを遺伝子レベルで解析した結果からオオズタンポポがトウカイタンポポと同種と発表し、「大名が植木などを移し替える時に意図せず紛れ込んだ可能性がある」としているそうです。
西日本タンポポ調査の中で、お城周辺のタンポポの分布と大名の領地替えについて前述の渡辺教授の共同研究者の芹沢先生が言及しておられました。それを元に私もこのブログ記事を思いつきました。渡辺先生たちはご自分たちの仮説を遺伝的な側面から証明されたわけです。
(2012/5/24追記)
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